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7)文國進理事長退陣希望、何のための騒動なのか。

 <明けの明星>

宗教が腐敗するとどうなるか。
イエス·キリストは、それを墓であるといった。律法主義に染まり、形式化された信仰集団となってしまったユダヤ教会に向かって一喝した言葉は「灰色の墓」であった。神様の摂理から離れた教​​会は、生命力を失った、死んだ者たちの集まりである。死んだ者がいるところは墓である。どんなに華麗に飾ってもそれは墓でしかない。

真のお父様が聖和された今、統一家は岐路に立たされている。神様の摂理を進めていくのか。それとも摂理とは関係のない、一介の宗教教派として1世紀も経たないうちに明滅するのか。果たして今、私達はどこに向かっているのか。統一家は、死んだ者たちの共同体、灰色の墓へと変貌している。生きている者たちは存在せず、ゾンビが集まった集団になりつつある。財団理事長の座をめぐり、追い出そうとするお母様と生き残ろうとする財団理事長と、彼の周りの勢力間争いが見苦しい。「違法行為をしない以上、解任案が可決されても無効」という法的根拠により財団理事会の解任案議決は失敗に終わった、という消息を読んだ。
私はここで、財団理事長という個人の人事問題を論じよういうものではない。私は個人的に、彼に恨みや名残惜しいという感情はない。
彼の進退問題は、今、摂理史の方向を妨げる重要な問題であるので、関心を持っている。誰もが知っているように、過去4年間、文亨進世界会長は、真のお父様のみ旨を真っ向から逆らって、「世界平和統一家庭連合」の看板を外し「統一教会」という宗教の看板の下、聖霊治癒振動術を説き、真の父母様を神格化する新しい宗教を作ってきた。数十年間、真のお父様が愛し育ててきた摂理機関と摂理運動を一つ一つ廃止してしまった。それこそ、神様の摂理とは全く関係のない方向に統一家を導いてきたのだ。神様の摂理を知っている食口は叫んだ。パイオニア・カフェは、このような反摂理歴史を正そうという良心ある食口のアゴラ広場となった。
文國進理事長は、まさにこのような反摂理の頭としての役割をしてきた文亨進会長を支持し、支えてきた人である。彼は、会計士に全機関と指導者を調査させ、弱点を見つけた。彼の恐怖政治は、彼に対するあらゆる反対意見を許さなかった。彼は、強い大韓民国運動という摂理史における空前絶後の反摂理、非原理的運動を展開した。真の父母様の摂理運動は、真の愛を土台に、神様を中心とした正しい理念と価値観で共産主義、唯物主義、退廃と享楽のような非道徳的社会を一新し、正そうということであった。宗教を超越して、国を超えて、平和の世界を成し遂げようということが真のお父様の基本的な教えであり、これに基づいて、これまで社会を変える運動を展開してきたのだ。
ところが、文國進理事長は武器競争において、大韓民国が中国に勝たなければならないという反時代的理論を打ち出した。これが真の父母様の平和運動であるという者がいるのだろうか。それだけでなく、無謀な訴訟を様々な国で起こしながら、人類救援を標榜した統一教会の旗を汚してしまった。一つ一つの例を挙げることすら難しい摂理逆行の状況を前に、一線の指導者たちは、裏では様々な不平を言いながらも沈黙し同調してきた。食口は、何か変だと感じながらもどうすることもできず、状況を見守るだけだった。文國進理事長の解任を希望する理由は、摂理を正したいという思いからであり、彼を憎んだり、恨んでのことではない。ともすれば、彼が今退くことが彼にとって最もよい選択であるからだ。文國進理事長の退陣騒動のようであるが、内容はそのように見えない。摂理を正すためのものであるのか疑問だという意味である。
真のお父様の聖和以来、今まで私達の目の前で繰り広げられてきた一連の変化が、果たして摂理を正すためのものなのか、それとも権力闘争なのか、歴然としない。お父様の聖和の後、明らかになったことは、清平を除いた財団や協会での小規模な人事だけである。一方、ピースカップの廃止、城南一和の売却、平和自動車事業の中断は、何のための改革なのか疑わしい。より根本的な問題を見てみると、現統一教会指導部は、改革の必要性を教会の成長、すなわち、食口数の増加に焦点を当てていることが分かる。もちろん生きている教会は成長するものである。しかし、それが最終目標ではない。私達が摂理的ビジョンに一致して進むと、数字は自然に増えるものである。しかし、数字に重点を置いて、摂理的方向性を失うと、増える数字も、神様の摂理とは関係のない、単なる量的膨張に過ぎない。世の中に信徒数の多い教会はいくらでもある。単一教会が数万、数十万を誇る教会もいくらでもある。これらを見ると、羨ましい気もする。しかし、果たして私達が彼らを羨ましく思わなければならないのだろうか。彼らの真似を出来ないことを反省すべきなのだろうか。ならば、真のお父様が残されたレガシーは何なのか。お父様が残されたみ言は、信徒数を増やすことだったのだろうか。
イエスが、ユダヤ教の教会でユダヤ教の数が少ないと、彼らに対して灰色の墓だと叫んだのだろうか。神様の摂理に連結されなければならないユダヤ教が、そうできずに、派手なエルサレムを誇り、律法を守る信仰を誇ったとき、彼らは石の上の石ひとつ残さず滅びた。お父様は「時が来れば、世界の人々が統一教会の塀を超える時代が来る」と言われた。しかし、そこには条件があった。私達が世の中のために献身し、努力して平和な世界を成せば、世界は私達の教会に入らなかったことを嘆くことだろう。事実、お父様は教会の信者の数にこだわらなかった。必要条件であって、それ自体が目的ではなかった。それがお父様が、予算をどこに使われたのか見れば分かる。教会成長論を前面に出している現統一教会指導部を見ると、彼らは根本的に真のお父様のレガシーに対する懐疑的見解を持っていることを知ることができる。お父様がされてこられたことが、無駄にお金を使うことだと考えているようだ。おそらく、彼らが羨ましく思うのは、ソウル市内のど真ん中に高い十字架と鐘の塔を立てている大規模な教会である。灰色の墓である。

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