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1)郭グループは果たして実体があるのか

 

                                           2012. 04. 20  金白山

実名 討論房

 

 

郭グループは虚像であり、レッド(対共産主義)コンプレックスと罠に過ぎない

統一教内部で郭グループは実在するのか。それは実体ではなく、財団が作り上げた捏造的虚像であるに過ぎない。統一教指導部が自分たちに反対する食口や祝福家庭を魔女狩りする為に作った人為的なカテゴリーであるに過ぎない。統一家内部に人為的な区別と差別を作り、お前と私を区分する二分法的かつ敵対的な概念であるに過ぎない。

所謂「郭グループ」という用語を使うにおいて統一教指導部は自分たちの過ちに対する反省と省察が欠けており、意見を異にする食口たちと祝福家庭たちに全ての責任を被せようとする悪意が内在している。所謂共産主義者などのレッド・コンプレックスを助長する用語のようなかかる捏造は、大衆の憎悪に便乗しながら政治的に反対勢力たちを圧迫し非難する為に極右独裁政権で使われたのと同一のものということである。

 

郭グループは祝福家庭自発的組織たちの共同体浄運動発点である

財団で言う所謂「郭グループ」は意図的に組織されたグループではなく自発的な動きだ。祝福家庭として、統一教の食口として摂理に対する自覚と憂慮に基づいた自律的な挙動である。主人意識と責任意識を持って自らの膿んだ傷を治癒しようとする私たち共同体の自浄作用であり、自己防御作用であるに過ぎない。統一教指導部が憎悪を盛り込んだ差別的言語として使っている所謂「郭グループ」は統一家と関係なく或る日突然外部から入ってきた集団や人々ではない。数十年間の摂理の中で歩みを共にしてきた食口たちであり、祝福家庭の仲間であると同時に兄弟姉妹たちである。

私たち全員が互いに全てよく知っている人々だ。摂理の中で血を分けた兄弟たちよりもっと濃い仲間意識を共にしてきた人々だ。その誰も互いの信仰的な真正性を疑っていない。そういう信頼が私たちの中には築かれている。たとえ今は他の道に行っていると言え、いつかは一つになるはずだという信頼まで捨ててはいない。私たちに迫ったこのような試練が、どうか一夏の夜の夢のように、大変だった或る日の一時の悪夢のように過ぎ去ることを望む次第である。

 

統一教指導部は郭グループという虚像を作って自分の過ちを隠蔽し擦り付けている。

私たちは愛する食口であると同時に、祝福家庭共同体である統一家を決して離れ去ってはいない。君と私の区別なく、ただ食口という共同体の中の一員であるだけだ。統一教指導部は今も多くの食口たちの良心的な叫びを不服従と抵抗、そして異端という罪に定めることによって別途のグループ、所謂「郭グループ」という虚像を作って分離させてはならない。そうすればするほど自分たちこそが罪に定められなければならない人々であることが明かになっていき、所謂「郭グループ」に参加する食口たちはさらに増加していくであろう。

統一教指導部に反対すれば即刻「郭グループ」という烙印を押され、甚だしくは背信者、サタンの走狗などという罪に定められる事態を見ながら、私たちは中世時代の魔女狩りを思い浮かべ、統一家の未来に対し悲しみと同時に絶望を感じる。

統一教指導部は多様なスペクトラムを持った食口たちの批判を謙虚に受け容れ、自分たちの誤った行動を改善しようとする改革的意志と省察的な行動を見せていない。食口たちの中で誰も指導部の誤った行動に対し兔罪符を与えたこともないのにも関わらずである。いつまで自分たちの誤った行動に対し真の父母様を押し立てて兔罪符を受けようと考えているのか。そして、それでも足りずに批判的な食口たちに対し却ってレッド・コンプレックスのような罠を仕掛けて郭グループとして分類し、信対委のような御用団体を仕立てて良心的な食口たちを非難し迫害しているのか。

統一教の現指導部は自分たちに対し批判的な発言をする食口たちを時間を見つけては会ってみたりしたことがあるのか。本当にその方々の意見を傾聴し、過ちを改めようとしてみたことがあるのか。そうではなく、一方的に批判的な考えを持った方々に対し反摂理の枷を着せ、背後で誰かが操縦しているものと断定し、相対する価値もないと考えるのか。

 

祝福家庭にとって麻浦の統一財団はバビロンの城のような馴染まない所になってしまった。

数日前に祝福家庭非常対策委が麻浦の統一教財団の前で文國進理事長の退陣デモを起こしたという。祝福家庭がこのように出るしかないのは、このまま行くと統一家がドブの中に嵌り、神様の摂理が破綻されるという危機感の為だ。しかし、このようなデモに対して財団や信対委など統一教指導部を代弁する人々は全然反省する気配がなく、却って郭グループが背後で操縦しているという説を押し立てながら、デモ参加者達を非難するのに余念がない。これは統一教指導部が事態の深刻性を未だに正しく把握することができず、相変わらず言い訳を繰り返していることを意味している。

デモ参加者の代表たちが文國進財団理事長に会おうとしたが、財団関係者は代表性を認めることができないと弁解しながら会わせてくれなかった。何十年間も信仰してきた信仰の先輩たちが主軸になった代表団に財団理事長は目もくれなかったという。祝福家庭非常対策委の代表団たちにとっては、まるで麻浦の都元ビルがお父様の財団ではなく、異邦の神を崇拜するバビロンの城のように馴染めない場所になってしまったように感じたそうだ。

 

公的資産を個人の貪欲な訴訟に浪費することは中止されなければならない。

今日このような摂理的混乱状況をもたらしたことに対して統一教指導部は決して責任を兔れることができない。統一教指導部は自分たちに与えられた特権的地位と才能が天からただ転げ落ちてきたものと思ってはならない。全てはこれまで天の摂理に同参して自己犠牲の道を歩んで来た食口たちの血と汗から成されたものであり、どれ一つとして代価なしに成されたものはない。自分の家庭と一族を犠牲にし、甚だしくは命まで捧げながらこの摂理路程に寄与した方々の苦労から成されたのだ。そういう苦労が分かったなら、公的資産を無駄な所に浪費したり、兄の才能を自分のものとして奪って来る為の貪欲な訴訟の費用に使ったりしてはならないのだ。

初めから変わることなく摂理一路を進む一人の兄の道をあらゆる謀略と策動によって妨害するだけでは足りずに、真の父母様の平和思想に基づいて平和と統一運動に全力を尽くしている兄の責任部分までも奪い去ろうとすることは、弟や妹たちが為すべき道理でもない上に、真の父母様の平和思想の価値を色褪せさせ、天の摂理を後退させる蛮行である。

統一教指導部は郭グループが統一教の公的資産を奪い取って行ったと批判しているが、それは事実ではない。むしろその公的資産は大部分が本来あるべき位置に守られており、その中の一部が天の摂理を守り真の父母様の伝統を受け継ごうとする目的の事業に合わせて貴重に使われているだけであり、決して空しく無駄使いされることはない。果して財団関係者たちが公的資産を云々する資格を持つことを願うなら、財団が食口たちの献金から成された資産を天の摂理に有益な正しい所に使っているのかをまず先に反省しなければならず、財団に勤める人々が公職者の召命を持って公的資産を貴重に思っているのか自ら省察しなければならないであろう。そしてまた自分たちがもらっている何億ウォンもの年俸を食口たちに公開し、追認を受けることこそまず先にすべきことだ。

 

最初の反逆は天の長子を廃しようとする陰謀から始まった。

真の家庭と真の血統の実質的な長子を廃して自分が長子の位置に上ろうとする堕落性本性にこの全ての事態の原因がある。統一教指導部が差別的に罪に定めている郭グループは、最初から天の血統の秩序を尊重し、運命的に長子の立場に立つしかなかった一人の兄の摂理的ビジョンに共感し、危機に瀕した統一家を正しく立てる為に自分たちの信仰的良心に基づいて立ち上がった人々であるに過ぎない。虚像に過ぎない郭グループを押し立てて魔女狩りをするのを黙って見ている多数の祝福家庭たちがそれに同意したと思ったら大きい誤算である。彼らの主張する郭グループは、沈黙を拒否し、良心的な声を出す我々の周囲にいる祝福家庭たちであるに過ぎない。教会と財団から出されるあらゆる非難を甘受し、理解が不足な周りの食口たちの冷遇を受けながら困難な道を進んでいる先駆者的な人々だ。

事実、真の血統の継代と秩序はもう決められたのだ。これは原理であり天の公法のようなものだ。誰でも勝手に変えられる問題ではない。誰にも自分固有のいるべき座があるように、摂理的長子という奇怪千万な概念によって置き換えられるものではなおさらない。真の家庭と真の血統の秩序が旧約時代なら通じるだろう奇怪千万な論理によって逆転されるなら、摂理はもう終わったも同然である。天の立場からの反逆は、既に定められた座にいる長子を廃して自分たちが長子の位置に上ろうとすることから始まった。

サタンが真の家庭の長子の血統を破壊する為に孝進様の家庭を破壊し、その子孫まで侵犯しただけでは足りずに、その代わりの座に長子として宿命的に立てられた兄の家庭を破壊しようとしたのは、統一家が直面した最大の挑戦であると同時に試練である。

既にサタンは孝進様と興進様のお二人を祭物として持って行き、今度は最後に3数完成の為に兄の家庭を脅威に晒しており、それも統一教の内部で起きているのである。しかし原理的にサタンは3数完成は不可能であり、結局その試みは失敗するであろう。残念なことに多くの統一食口たちは、自分も知らない間に教会の指示に従って真の血統の長子を迫害し、捕らえ殺すことに同参している事実を知らずにいる。甚だしくは真の父母様の宣布文実行という美名の下に何の罪意識もないままにその事に同参している。

 

沈黙を破り信仰的良心が示す方向に進まなければならない。

初めは沈黙を破り良心的な声を上げる祝福家庭が少なかったが、これからは大きな河の水のように勢いを成しつつある。決して信仰的良心の声は死ぬことはないだろうし、いつかこの挙動は大洋の怒涛のように不義なる輩らの反摂理的諸行動を一掃してしまうであろう。そして、彼らのあらゆる特権的地位を剥奪し、不正な方法で集めた財物を取り戻し明らかにして、天のものとして還元させるであろう。

その日が来れば全てが天の前に赤裸々にされるようになるであろう。そして、最後の審判は天の取り分となるであろう。たとえ現在の統一教指導部が教権を握って組織を掌握した中で食口たちに対する誤った教育と煽動を通じて批判的な声を出す人々をサタンの走狗として罪に定めることができているとしても、その烙印は天の前には何らの効力も発揮することができないであろう。

再度強調するが、統一教指導部には良心的な食口たちを審判する何らの資格も権限もない。彼らが真の父母様の権威を笠に着てその審判と断罪に対する正当性を主張すればするほど、真の父母様が担って行かなければならない業報と蕩減の重さが大きくなるだけだ。良心的な祝福家庭たちをサタンの走狗として罪に定めれば定めるほど、真の父母様を通じて誕生した祝福家庭の価値を否定し真の父母様が真の血統の根となることを根本的に否定する矛盾に陥るであろう。そして、その断罪と審判の行動もまた彼ら自身を害する刃となって自らに返されるであろう。その日がいつになるかは分からないが、摂理的結実の時代に穀物をその中身と殻に分別する過程を経ざるを得ない天の事情を知らなければならない。

たとえ肉を抉る痛みが伴うとしても、腐った部分は切り去ってしまって行くべき道であるだけに、決して希望の絆を手放すことなく前進して行かなければならない。天に分別された完全な祭物として生まれ変わる為に、信仰的良心が示す方向に従って行かなければならない。天はこの時代の摂理の急迫性を知らずに現実に安住しようとする統一食口たちが、再び殻を脱いで飛翔していくことを真に願っている。もはや物神の虜になって神様の摂理の夢を忘れてしまった統一教とその財団を変化させ、完全に天のものとして取り戻さなければならない。真正な立場から、天の所有権の実現は、それがどちらに属していることが重要ではなく、それが天の摂理の本来の目的に合わせて価値あるように使われているかどうかによって決まるのである。

このような不義の時代に神様の夢を捨てずに摂理の中心を正しく立てていこうとする良心的な祝福家庭が現われなかったら、神様はどれほど悲しまれただろうかと思うと、気が遠くなりそうだ。摂理がマジノ線まで追いやられた状況においても、神様のみ旨と夢を肝に銘じ困難な中でも厳しい道を進もうと自ら願い出た良心的な祝福家庭が存在する限り、摂理は必ず結実の一時を迎えるであろう。

 

 

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