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11.「喧嘩の何処がいけない?喧嘩ぐらいしてみたらどうか?」

 

2012.10.20  <セビョクビョル(暁星)>

 最近の教会の現実を見ながら、争うのが問題だと言っている人々がいる。私は寧ろそういう人々に対し「喧嘩の何処がいけないのか。喧嘩ぐらいしてみたらどうか」と言ってやろうと思う。

 

世の中に喧嘩や争いそれ自体が問題であるという法はない。本質は何故争うのかということだ。争わないことが卑怯であって争うことが尊いという時はいくらでもある。必ずしも弁証法を追従しなくても、勇敢に戦ってくれた人々のおかげで人々が苦痛から解放されたり、悪を打ち破って善を立てることができたり、不義を打破して正義を立てることができたり、抑圧と圧制をくぐり抜けて自由と人権を獲得することができたりした。もし我々の先祖たちが闘いを放棄していたら、歴史の進歩はなかったはずだ。少なくとも悪が主管してきた先天時代の歴史過程においては争いや闘いは不可避なことだったと原理は明らかにしている。私たちが今、享受して生きている民主主義は誰かの熾烈な闘いによる恩恵であるのだ。

 

これから私たちは争いではなく、和合と容赦の後天時代を開かなければならない。それがこの時代の時代精神だ。しかし後天時代は偽りや不義と妥協して共存する時代ではない。偽りや不義が消え去った時代だ。私たちにまだ争わなければならない偽りと不義があるなら、私たちはこれを一掃する為に惜しみなく闘わなければならないのだ。もしかしたら私たちは平和の後天時代を開く為に残っている先天時代の残滓と闘っているのかも知れない。

 

私たちの共同体が持っている先天時代の残滓、即ち偽りと不義を追い出さなければならない。ところで、その闘いは結局は自分自身から出発するのだ。自分自身が持っている罪と矛盾を追い出すことから始まらなければならず、それが目標と結果にならなければならない。それこそがこの争いの本質であるということを知らなければならない。統一教指導部の過ちを指摘して、統一教が行く方向性に問題を提起することは即ち、自分自身や自分の家庭が誤った環境に置かれて虚構に掴まって方向を失わない為であって、彼らを追い出して彼らの座を自分たちが代わって支配する為ではない。「(彼とは)やっていけない、(他の人と)取り替えてみよう」ではない。つまり、憎しみと憎悪が争いの動機になってはならないのだ。

 

最近すっかり私たちは文國進財団理事長の進退可否をめぐって関心を引き付けられている。しかし、問題の核心は個人としての文國進理事長とその周辺の人々の退陣ではない。彼らが退くといって全てが解決されるわけではない。それは過程であって目標ではない。問題の本質は、「このような痛恨の過程を通じて、私たちは果してどのような共同体を建設するべきか、その共同体の中に自分自身と自分の家庭が何を目標に、どういう姿で生きていくべきか」なのである。一体私たちは何のために争っているのか、根本から見直さなければならない。

 

私たち統一家は果してどのような共同体にならなければならないのか。私たちはどんな夢とビジョンを持った共同体にならなければならないのか。そういう共通したビジョンを持った共同体はどういう形式を備えるはずであり、どんな文化を持った共同体にならなければならないのか。私たちに果たしてどういうビジョンがあって改革を夢見るのか。改革には夢がなければならず、その夢があれば改革が可能だ。

 

統一家が破綻に向かいつつある根本原因は、私たちの共同体が本来のビジョンと夢を忘れてしまったからだ。私たちはいつの頃からか、かつて原理とみ言を通じて感化と感動を受けた摂理のビジョンを忘れてしまった。再論するまでもなく、復帰摂理の目的は創造本然の世界、即ち地上天国の建設である。私たちはメシア在世時にこのみ旨が成し遂げられると信じて従ってきた。そしてみ旨は世界へ広がっていった。しかし数十年の歳月が過ぎても、それは成し遂げられない非現実的な夢になってしまった。現実の様々な問題は、私たちがそこまで大事に生命視してきた摂理のビジョンを忘却させてしまったのである。各種の大会でみ言を伝えられるお父様は常に非現実的であって、私たちは現実的だった。そのように私たちはお父様の夢と遠くなったのだ。習慣的に教会には通っていて、口では夢を語ってきたが、胸の中の情熱は冷えてしまっていた。既に地上天国建設の夢を論ずることは時節外れの話になってしまい、それがいつ頃からか記憶できないほど昔からのことになっていた。
一般食口家族も寧ろ指導者たちの認識がより速く変質したというのが悲劇の原因だった。そういう状況の中に文亨進会長と文國進理事長が統一家の責任を負うようになりながら、私たちは地上天国建設の夢を掴むのに、勇敢に世の中に出て世の中を変化させるよりは私たちの教会、誇らしい統一教を強化し、統一教の財産を守ることに沒頭するようになった。彼らがこのような変質の牽引車の役割を果たしたことは確かに事実だ。しかし、これは彼らだけの責任ではなく、摂理の夢とビジョンを忘れてしまった私たち全員の責任であることを私たちは痛感しなければならない。

 

文國進理事長の退陣を願い、教会が改革されるのを夢見る私たちの動機と目標は、本然の摂理的ビジョンの回復でなければならない。そして、このような摂理的ビジョンを中心した共同体を新しく建設することが目標にならなければならない。したがって今こそ摂理的ビジョンが何なのかを正確に理解しようとする努力が必要だ。その中において祝福家庭の責任と使命が何なのか悟り、そういう祝福家庭たちが集まって創っていく組織と共同体はどのような形と文化を備えているべきかを求めるべき時が今だ。そういうコンセンサスを作っていく過程が争いという形で登場しているのだ。

もしかしたらそれが真のお父様の聖和と共に私たちに与えられた最初のミッションなのかも知れない。私は私たちの共同体がこのミッションに必ず成功するものと信じる。その理由は私たち皆が知っていると思う。

 

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