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5)果して絶対服従は盲従とどう違うのか

                                 2011.08.19  訓読男

 

今日私たちは絶対服従と言っていますが、果して絶対服従とは何でしょうか。また、盲従とはどう違うのでしょうか。「天聖経」の「罪と蕩減復帰」篇を見ると、絶対服従というのは絶対者の前に絶対的な相対になる為に、絶対に従うこととされています。そうしながら神様が絶対的なら私も絶対的な位置を願うべきであり、神様が不変なら私も不変であるべきであり、神様が唯一ならば私も唯一であるべきであり、神様が永遠なら私も永遠であるべきだというのです。いくら神様が愛があるとしても私に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても私に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても私たち人間に理想がなければ全て無駄だというのです。(天聖経「罪と蕩減復帰」篇・要約70-71)

私たちはよく絶対服従と言うとき、「自分を絶対的に否定」しなければならないと言います。お父様も自分の欲心を持ってはいけないと語られ、お父様を中心として完全に絶対的に一つにならなければならないと語っておられます。もし私を絶対的に否定し、私が愛するものも、私が好きなものも、私が理想とするものも持ってはならないのであれば、上のお父様のみ言葉のように、神様の絶対的な相対になることはできないのです。

神様が愛なら私も愛でなければならず、神様のように生命であり理想でなければならないため、「私」という存在は主体的に愛することができなければならず、主体的に考えなければならないのです。だとしたら、神様の絶対的な相対になり神様のようでなければならないというのはどういうことであり、自分を絶対的に否定しなければならないと言いながら、自分の欲心を持ってはいけないというのはどういうことでしょうか。この二つの言葉は互いに相反する言葉なのです。

お父様は自分が信じている一人の宗教指導者がいるなら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を隔てていても、信じる心を中心とすれば、その人と平面的に対等な時代圏内に入ることができると語られ、絶対的に信じる時はその人と共にいるのであり、共に死ぬのだと語っておられます。(天聖経「罪と蕩減復帰」篇・要約71) このように見ると、絶対的な服従や信仰は、場所や時間や空間を超越して成され得るということが一次的に分かるようになりました。

「統一世界9-2004」の第14回・七一節記念行事の時の祈祷を見ると、神様も絶対価値観を中心とする愛の前に絶対信仰・絶対愛・絶対服従できる伝統を立てなければならないとされています。(統一世界9-2004、28/第14回七一節記念行事の時の祈祷) 神様も絶対服従・絶対愛する為に人間を絶対愛の対象として創られたとされ、絶対服従・絶対愛することを願っておられると語られました。

「皆さん、神様が人間を創造した目的は何ですか。全知全能であり無所不在(=おられない所が無い)であられる神様も一人だけで居られることを願わなかったので、先ず天宙が人間の為の環境創造の一環として創造され、その土台の上にご自身の絶対愛の対象として創造されたのが人間です。・・・神様が人間を創造なさる時も先ずご自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てておいて、100パーセント投入をしてきたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。

愛の主人は一人で成すのではありません。必ず対象を通して成就するのです。この絶対的価値圏の愛の原理の前では神様も同じです。子女がいなければ永遠に父母が愛の主人になれないように、神様ご自身が絶対愛の主人の位置に立つ為にはその相対圏である人間を絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです」(統一世界9-2004、87-88)

それならば人間が願うことは何でも全て聞いてくれるのか、というと、現実的にはそうではありません。もし絶対服従と絶対愛が相対の言うことに無条件的に従っていくことだとしたら、人間が堕落する当時にもその理屈がぴったりと合わなければなりません。ところが、アダムとエバの堕落に対して神様は絶対的な立場でその状況を受け入れずエデンの園から追い出しました。神様はアダムとエバが行ったことの前に絶対的に従うことができませんでした。だとすると、神様は嘘つきということなのでしょうか。

上のみ言葉を見ると、神様は人間に絶対愛、絶対服従、絶対信仰をするのに基準がありました。「絶対価値観を中心とした愛の前に」という前提があるのです。

「統一世界」を見ると、お父様は神様も真の父母に絶対服従・絶対信仰・絶対愛してこそ初めて天国に行くと語られましたが、原理のみ言葉の八大教本教材の前に入籍すれば天国に行くというみ言葉も語られました。お父様は「お父様についてくるな」と語られながらも、「教本教材に入籍をすれば息子として、弟子として、僕として接遇せざるを得ない」とさえ語られ、「お父様よりみ言葉をもっと愛せ」とも語っておられます。お父様もそのようになっていると語られながら、お父様はもう入籍することができると語っておられます。(統一世界2-2011、 6-7、統一世界10-2009、 17)

天国の教本! エデンの教本であると語られ、「これは堕落した宗教世界の教本や人倫道徳の教本ではなく、天地度数の教本であり、それ以上は無い」と語っておられます。それを守らなければならないと語られ、エデンの園で犯罪行為の前に全て失ったと指摘されながら、お父様はそれを全て守ったと語られます。(統一世界2-2011、9) 神様も守り、お父様も守り、アダムとエバもエデンの園で守らなければならなかった原則があり、それを中心として絶対服従・絶対愛・絶対信仰であると語られます。お父様はご自身に付いて回らずに「入籍して来なさい。お父様のみ言葉はすべて終わった」と語っておられます。

言い換えると、何の考えもなく、お父様が指示なさったら、その指示のとおりにそのままその道を通って行けば入籍して天国へ行って、お父様が「よくやった」と誉めてくださるのでしょうか。盲従すれば全てが成し遂げられるのでしょうか。服従には自分の意思がないとされ、神様の意思以外にはあり得ないということですが(統一世界11-2009、6-7)、この言葉は、本当に私の理想はすっかり無くなってしまい、相手が指示する言葉にだけ従って行くということなのでしょうか。そうなれば、主体的な愛と主体的な考えをする神様の絶対的な相対者として立つことは難しいのです。

だとすれば私たちはどのように絶対服従しなければならないのか、天聖経の「真の愛」篇を見ると、「愛は絶対的と言いながら、その絶対愛の前には絶対知識・絶対能力・絶対権限を持った神様も絶対服従する」と語っておられます。それと共に、「人間が神様の愛と関係を結べば、その愛の方向を教えてあげなくても自ずから従って行くようになる」と語られながら、「神様を中心にした新しい愛、即ち創造の法度による愛が決定された位置で初めて神様の理想が出発する」と語っておられます。(天聖経「真の愛」篇・要約40-47)

「神様の愛と関係を結べば」と語っておられるのです。このみ言葉を言い換えると、「一体」と語っておられます。人間は神様と神人愛一体を成さなければならないのですが、一体を成せば神様と同等な立場に置かれるようになるというのです。対等な立場に置かれるようになると語っておられます。これが正に神様が人間に対し絶対的な愛、絶対的な服従、絶対的な信仰をするようになる位置です。そうなれば教えてあげなくても神様の前に絶対服従、絶対信仰、絶対愛の位置に自ずから従って行くようになるのです。お父様が私たちに望まれる絶対服従・絶対信仰・絶対愛も正にこういう立場から語られるわけです。み言葉を語られなくても、お父様の心情と一体となって自ずから従って行くようになるわけです。この時に私たちは盲従の立場ではなく、自省によって法を中心にしてお父様に従うのです。

天聖経を見ると、天国に入ることについて語られたみ言葉の中で、自主性を持たなければ霊界に入ることができないと語っておられます。私がそこにおいて絶対的に必要という自主性があってこそ天国へ行くと語っておられます。(天聖経「地上生活と霊界」篇・要約49-50) 私が認め、私が好み、私が必要でそうするのであって、即ち天国とは決して他者によって引っぱれて行く所ではなく、自分の考えと理想どおりに動く所だというのです。

結論的に申し上げると、絶対服従・絶対信仰・絶対愛というのは、盲従するかのように真の父母様が指示するそのまま実行して越えて行くのではなく、「正にそうです。そうしなければなりません。そうします!」という心で絶対的にお父様と一体となった中でこそ絶対服従・絶対信仰・絶対愛が成され得るのです。

もしお父様がみ言葉の中で天法に違反するようなことがあったとすれば、私たちはそのみ言葉に対してはお父様と一体となることができず、また絶対服従できない立場になるのです。何故そうかというと、今の時が絶対服従という条件によって蕩減復帰する先天時代ではなく、法によって統治される後天時代に入っているからです。

勿論お父様は天法を破る方ではありません。しかし、もしもお父様が天法に違反するようなことを私たちにさせる場合には、私たちは「何故?」と疑う心を持ってお父様に天法について問いたださなければならないのです。「お父様が教えてくださった天法はこうなのに、何故私たちに天法を破れとおっしゃいますか」と問うてみるべきです。お父様はみ言葉と一体とならなければならないと語っておられます。何処かの誰かがもっともらしくお父様の姿を装ってやって来て天法とは相反することに従うよう命ずるなら、、私たちは天法に鑑みて善悪正邪を判別することができなければなりません。それがお父様が私たちに望まれる願いなのです。

「統一世界」ではこのようなみ言葉を語っておられます。

「先生はそう遠くないうちに霊界に行きます。今は先生がいるから、あれこれ言いながら善悪正邪を判別してあげることができますが、先生がいなくなったらどうするのですか。荒野に出で立って、何と言うべきか、オオカミの群れや虎の群れやあらゆる雑多な獣たちが欲しいままに食い殺すことができる環境が起こるというのです。ですから先生が行く前に、何ですか?『平和訓経』は皆さんが言うように平和な訓経ではありません。平和を作らなければなりません。平和はまだありません。平和を創造していかなければなりません。・・・この位置まで探して来る為に天の心情圏に責任を背負った教団あるいは個人個人が、その時代時代を代表して多くの人が犠牲になったということを知らなければなりません。そういうことも知らずに、『やれやれ、私たちの祖国が天国だ』といって勝手気ままにしようというけれども、そこには法というものがあります。内外の法があるのです。家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法、さらに進んで天国、天上世界の法の峠を越えて行き、サタンと全てのものを屈服させてから帰って来て、自分たちが定着しなければならないというのです」 (統一世界1-2008、 13-14)

上のみ言葉のように、お父様は、お父様がいらっしゃらなくなる場合を考えられ、天法を教え、法の前に一心一体になるように願われて、如何なる状況が近づいてもみ言葉を中心にして善悪正邪を判別し、神様の息子娘の立場を失わないことを願い期待なさるのです。それゆえに今日、後天時代を迎えて労心焦思(気をもみ心を焦がすこと)されながら、カイン・アベル問題に関し分別できる食口となるよう願われながら、天法によって分別できる食口たちを探しておられるということを、子女たる立場で考えなければなりません。(訓読男)

 

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